シモン・ボリバル
Simón Bolívar

「解放者」シモン・ボリバル

シモン・ボリバルは、その思想と行動から「アメリカの人(Hombre de América)」と考えられています。世界史における傑出した人物であり、ラテンアメリカの様々な国で偉大な政治的遺産を残しました。ベネズエラ、コロンビア、エクアドル、ペルー、ボリビアの5カ国を植民地支配から解放。スペイン帝国からこれらの国々の独立を勝ち取った軍を指揮しました。また、法律上は1821年~1830年に存在し、前述の国々の連合にパナマが自発的に加わってできた共和国、大コロンビア(グラン・コロンビア)の推進者となり、1819年~1830年の間、その大統領を務めました。

 

ボリバルの政治的・社会的な思想や姿勢は、ボリバル主義(Bolivarianismo)と呼ばれる潮流の起源となりました。これは特に、団結・正義・自由・平等・民主主義という原則に基づいています。

 

・団結


ボリバル主義の哲学は、権力と富を貪欲に追求する帝国主義を食い止めるため、パトリア・グランデ(偉大なる祖国)の考えに基づいて、文化を共有する国々の団結と統合を目指すというものです。「私たちは南アメリカのための中央政府、唯一かつ有力なアメリカの政府を形成する必要がある。世界を征服しようとしてやまない強大な権力に立ち向かうことのできる、巨大な政府を。私たちは全南アメリカの融合―共通の歴史、言語、文化を持つ兄弟国の集合体への融合なくして設立され得ないような国家を必要としている。私たちにとって、祖国とはアメリカなのだ。」(シモン・ボリバル)

 

・正義


豊かな者と貧しい者とを、公平さと真の誠実さにより等しく保護する法制度の確立。自らの権利を有効とするには他者の権利を尊重せねばならない、これはあらゆる市民の義務です。「法令の侵害は、隷属であり無政府状態である。隷属を維持するような法は、最も背徳的な法である。この犯罪(隷属)のあらゆる面を見よ、このような人の尊厳の侵害を合法とするような堕落したボリビア人が一人でもいるとは信じない。」(シモン・ボリバル)

 

・自由


あらゆる人が、政府の活動において同じ権利を持ち、自由に参加でき、主役であることができます。「諸国家は自国の憲法の奴隷であり、国家は自国民の運命を左右する。法の精神は、各国民に相応しくあるべきである。各国民は法を、自国の自然、気候、土地の性質、そして自分たち自身に適したものにするのだ。」(シモン・ボリバル)

 

・平等


あらゆる人が、その出自、肌の色、社会階級、ましてや背が高いか低いか、肥っているか痩せているか、肌が白いか黒いかにかかわらず、社会の中で同じ権利と義務を持ちます。

 

・民主主義


ボリバルは一貫して確たる共和制支持者であり、君主制は、現実やアメリカ解放の精神に合わない時代錯誤の制度だと信じていました。ボリバルは憲法草案のすみずみで民主主義の要素を構想していました。つまり、大多数の人々の参加と世論の尊重により物事が決まる、人民の、共和制の、責任ある、代表制の政府です。ボリバルは、「最も完璧な政府というのは、可能な限り最大の幸福、最大の社会保障、最大の政治的安定を生み出す政府」であり、「民主主義のみが(中略)絶対的な自由を可能にする」と考えていました。

 



ベネズエラ人にとってのシモン・ボリバルの重要性

 

ボリバルは、常にベネズエラの英雄だったわけではありません。実際、ボリバルがコロンビアのサンタ・マルタで1830年に死去したときには、彼の考えに反した思想を持つ人々が多くおり、大コロンビア共和国の崩壊が始まりつつありました。しかしながら、その後の時代にボリバルの姿が国民の融合のシンボルとして使われることになります。

 

1833年、当時の大統領であり、生前のボリバルとは大きく意見を異にしていたホセ・アントニオ・パエス将軍が、国民議会にボリバルの名誉回復を提案しますが、拒否されます。まだボリバルへの反感が鮮やかに残る頃でした。また、1837年から1839年に行政担当副大統領を務めたカルロス・ソウブレッテ将軍が同様の提案をしますがやはり拒否されます。一方ボリバルの親族は、ボリバルの亡骸を帰国させるための手続きをしていました。ヌエバ・グラナダ(現コロンビア)の政府はボリバルの姉妹による遺体発掘の申請に同意しますが、ベネズエラ政府はこれを拒絶します。亡骸は国家のものであり、発掘は政府のみが行えるとの主張でした。

 

1840年以降、シモン・ボリバルの名は諸政党を動かす旗印となります。これが大衆の反響を呼び、特に演劇作品でボリバルを讃える作品が作られるなどするようになります。1841年7月5日の独立記念日には、国民は熱狂的にボリバルを称え、独立の英雄たちに喝采を送りました。同年10月28日の聖シモンの日には人民の歓呼の声は決定的なものとなりました。その影響はあらゆるセクターに及び、恩赦してボリバルの亡骸を帰国させることを拒絶していた政府の姿勢にも影響が及びます。

 

1842年2月5日に国民議会が召集され、議長にホセ・マリア・バルガス博士が就任。ボリバルの恩赦及び遺体の帰国を国家の要請だとする、当時二期目を務めていたパエス大統領によるメッセージが読まれ、ついに議会はこれを承認します。1842年4月30日、ベネズエラとコロンビアが発したあらゆる名誉称号・栄誉をボリバルに認め、サンタ・マルタから彼の遺骨を移動させ、ボリバルの名誉に関わるその他手段を講じることを命じる政令が発令されました。例えばボリバルの遺体の帰国、公務員の8日間の服喪、記念式典の開催、全労働者への服喪日の付与などです。さらに、議会と行政府の全ての広間にボリバルの像を設置することとしました。

 

パエス大統領は首都カラカスの名をシウダー・ボリバル(ボリバル市)に変更することまでは成しえませんでしたが、代わりにアンゴストゥーラの街が1846年にシウダー・ボリバルに改名されています。

 

ベネズエラ合衆国の大統領、アントニオ・グスマン・ブランコ将軍は、大統領を三期務める間(1870-77、1879-84、1886-88)、熱心に彫像やモニュメントの建立を推進しました。その多くは、シモン・ボリバルをはじめとした国家の英雄を称揚するためのものでした。カラカスのマヨール広場をボリバル広場に改名し、ボリバルの騎馬像をイタリアで作り広場の中心に据えました。1876年、それまでの通貨を廃止し、ベネズエラ唯一の通貨としてボリバルを設定しました。

 

その頃以来、ボリバルの人となりはベネズエラ人の気質・特色となってきました。小中学校で学ばれ、全国の街や村に像が置かれて敬意を払われ、ベネズエラの重要な天然記念物がその名を冠するようになりました。さらには1999年憲法の国民投票を経て、国名もベネズエラ・ボリバル共和国となりました。

 

 

関連するボリバルの談話・文書(一部)

 

  • モンテ・サクロの誓い (1805年8月15日)
  • 愛国協会への演説(1811年7月3日)
  • カルタヘナ宣言(1812年12月15日)
  • 殲滅戦布告(1813年6月15日)
  • カルパノ宣言 (1814年9月7日)
  • ジャマイカ書簡(1815年9月6日)
  • アンゴストゥーラ演説(1819年2月15日)
  • ククタでの演説 (1821年8月30日)
  • クスコの哀歌(1825年7月10日)
  • ボリビアでの演説(1826年5月25日)
  • オカーニャ議会へのメッセージ(1828年2月29日)
  • コロンビア議会へのメッセージ(1830年1月20日)
  • 解放者シモン・ボリバルの最後の声明(1830年12月10日)
  • シモン・ボリバルの遺言(1830年12月10日)

 

これらの他にも談話・手紙・ボリバルの施政下で承認された法令など、彼の考えが垣間見られる資料が数多く残っています。

日本では以下の作品でシモン・ボリバルについて知ることができます。


・『シモン・ボリーバル―ラテンアメリカ解放者の人と思想 』
ホセ・ルイス サルセド=バスタルド(著)
・『シモン・ボリーバル ラテンアメリカ独立の父』神代 修(著)

 

 

ボリバルの生涯

 

シモン・ボリバルは1783年7月24日夜、カラカスのサン・ハシント広場にある名門家庭で産声を上げました。

 

6日後の7月30日、親戚である神父フアン・フェリックス・へレス・デ・アリステギエタ博士によりシモン・ホセ・アントニオ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダー・デ・ラ・コンセプシオンの名でカラカス大聖堂で洗礼を受けました。博士は赤子の父フアン・ビセンテに従い、赤子にシモンと名付けました。

 

母ドニャ・マリア・コンセプシオン・パラシオ・イ・ブランコ、父フアン・ビセンテ・ボリバル・イ・ポンテ-アンドラエは1773年に結婚。5人の子のうち、シモンは4番目に当たります。兄弟はマリア・アントニア、フアナ・ネポムセナ、フアン・ビセンテ、マリア・デル・カルメンです。(マリア・デル・カルメンは出生後数日で死去。)

 

1786年、シモンが2歳の時に父親が結核で亡くなると、一家の長となった母親はこの世を去るまで家族のために働きました。母コンセプシオンは1792年7月6日に34歳で死去、その時シモンは9歳でした。

 

アラグアの谷とカラカスの間でシモン少年は幼年期と青年期の一部を過ごしました。シモンの勉強は、都会の学校での初等教育と、一家の農場訪問を組み合わせたものでした。そのもっと後、シモンが15歳の頃、アラグアの地はシモンの人生にとってもう一つ新たな意味を持つことになります。スペイン政府の官僚であった叔父エステバンの仲介により、バジェス・デ・アラグア白人歩兵隊准尉に任命されるのです。

 

この間、シモンは最良の教師や思想家の元で教育を受ける幸運に恵まれていました。アンドレス・ベジョ、ギジェルモ・ペルグロン、シモン・ロドリゲスといった人物たちです。シモン・ロドリゲスは、シモン少年をアウディエンシア(王立の機関)の命により自分の家に寄宿生として迎え、その神経質で反骨的な激しさを時に落ち着かせることに成功しました。このことが二人の大きな友情の始まりとなります。軍隊に入隊したものの、軍のどのような側面も少年を完全に落ち着かせることはできず、叔父らはシモンをスペインに送り教育を受けさせることにしました。

 

ボリバルは、15歳でスペインに渡り勉学を続けます。1800年、マドリードでマリア・テレサ・ロドリゲス・デル・トロ・イ・アライサに出会います。その時ボリバルは弱冠17歳、彼女は20歳でした。

 

1800年8月、マリア・テレサはボリバルの婚約を受け入れ、1802年5月26日、初期のサン・ホセ教会があったフリアス公爵邸(マドリード)で二人は結婚しました。ボリバル19歳、マリア・テレサ21歳の時のことです。

 

1802年6月15日、結婚したばかりのボリバル夫妻はカラカスへ出発し、7月12日にラ・グアイラ港へ到着します。カラカスに短期間滞在したのち、サン・マテオにあるボリバル製糖工場の「カサ・グランデ」に移り住みました。マリア・テレサはその直後、悪性の熱病(黄熱病やマラリアなどと考えられている)に罹り、そのため二人はカラカスに戻りますが、1803年1月22日、彼女は帰らぬ人となりました。

 

若いボリバルは悲嘆に暮れ、心痛を和らげるため旅に出ることを決意します。この時、もう二度と結婚はしないと誓ったのでした。

 

ボリバルは、自らの使命と理想に絶対的な確信を持った人物でした。1805年、まだ22歳の時、ローマで自らの助言者であり友人であるシモン・ロドリゲスとフェルナンド・ロドリゲス・デル・トロを前に、自分の生涯をイスパノアメリカの独立のため闘うことに捧げると誓いました。これはモンテ・サクロの誓いと呼ばれています。

 

シモン・ボリバルは、ベネズエラが共和国となる前の時代の、ベネズエラ総監領の軍人であり政治家です。大コロンビアの創始者であり、スペイン帝国からのイスパノアメリカの解放における最も傑出した人物の一人です。確固たる決意を持って、現在のボリビア、コロンビア、エクアドル、パナマ、ペルー、ベネズエラの独立に貢献しました。

 

1813年、ベネズエラのメリダのカビルド(市参事会)から「リベルタドール(解放者)」の称号を授与され、同年、カラカスでこの称号が承認されてからはボリバル自身の名前と結び付けられるようになりました。描いた計画を実行するのにあまりに頻繁に困難にぶつかるため、フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデール将軍への手紙(1825年)でボリバルは自らを「困難の男」と認めるほどでした。

 

ボリバルは、全アメリカを政治的・軍事的な大連盟として結び付けることを目指した国家である大コロンビアの創設に参加し、その大統領に就きました。

 

1830年5月8日、ボリバルは自身の貴金属、装身具、馬を売り払って得た1万7千ペソだけを携え、友人・政治家のグループを伴いボゴタを出発しました。コロンビアの副大統領ドミンゴ・カイセドは、ヨーロッパに戻る意思を見せていたボリバルにパスポートを発行しました。

 

6月にカルタヘナに到着。カルタヘナでは街の人々から闘い続けるよう応援を受けますが、ボゴタではボリバルに反対する運動が続いてました。7月1日、マリアノ・モンティリャ将軍から、アヤクチョの戦いでスペイン軍を破った陸軍大元帥でありボリバルの同志であるスクレ将軍が殺害されたとの知らせが入り、ボリバルは打ちのめされてしまいます。

 

同月末、ボリバルがコロンビアの地にいる間、ベネズエラ議会が大コロンビアから離脱する決議を行ったとの報道を目にします。無念のあまりボリバルは健康を損ない、支援者らはコロンビアを発たないようボリバルを説得しました。

 

ボゴタからマグダレナ川を下る厳しい船旅を経て、1830年12月1日、ボリバルは衰弱してサンタ・マルタに到着しました。恵まれた気候と看病にもかかわらず、到着後数日で健康状態は悪化。覚醒しているわずかな時を利用して遺言書と最後の声明を綴りました。声明からは、少なくとも自らの死が大コロンビアの団結に役立ち、分裂の消滅を導くように切願する、ボリバルの姿が見て取れます。

 

 

略年譜

 

1783

7月24日、カラカスの資産家家庭に生まれる。

1792

孤児となり、母方の祖父が住む町、後に叔父カルロス・パラシオスの住む町へ引っ越す。

1799

学業を終えるためスペインへ発つ。

1802

マドリードにてマリア・テレサ・ロドリゲス・デル・トロと結婚。

1803

カラカスへ戻る。黄熱病により妻マリア・テレサ死去。ボリバルは欧州へ新たな旅へ。

1805

ナポレオンの戴冠式に出席。スペイン統治下のイスパノアメリカの植民地を解放することを決意し、ローマにてモンテ・サクロの誓いを立てる。

1807

カラカスへ戻る。

1811

フランシスコ・デ・ミランダ指揮下の軍に大佐として参加。

1812

フランシスコ・デ・ミランダの降伏ののち、キュラソー島へ移動。

1813

カンパーニャ・アドミラブレ(みごとな作戦)と呼ばれる作戦によりベネズエラを奪回。ベネズエラ軍の最高司令官に指名され、「解放者」の称号を受ける。

1814

敗北を喫しジャマイカへ渡る。ジャマイカ書簡を著す。

1821

多数の遠征・戦闘を経て、カラボボの戦いで決定的な勝利を飾り、ベネズエラの独立を確実にする。この2年前にコロンビア、ベネズエラ、エクアドル及びパナマの各共和国を一つとする大コロンビア共和国憲法をアンゴストゥーラで布告していた。

1822

スクレ将軍とともにエクアドルの解放に成功。同年6月16日に行われたキト(エクアドル)への凱旋行事で、マヌエラ(マヌエリータ)・サエンス・デ・トルネは初めてボリバルに出会い、その様子を彼女のキト日記に書き残している。
「(凱旋して街頭行進するボリバルが)我が家のバルコニーの前へ近づいて来た時、私はバラの冠と月桂樹の束を手に取り、閣下の馬の前に落ちるように投げ落とした。しかし、力いっぱい投げたこれらは、閣下のジャケット、ちょうど胸の所に命中した。私は恥ずかしくなり赤くなった。というのも彼が目を上げ、投げて伸ばした腕のままの私を見たからだ。それでも閣下は微笑み、手に持っていた濃い青色の帽子を掲げて私に挨拶した。」
その後、ボリバルの歓迎ダンスパーティーで再会した時、ボリバルは彼女にこう言った。「ご婦人、もし私の部下があなたほどの射撃手だったら、とうにスペインとの戦いに勝っていたでしょうに。」二人は、1830年にシモン・ボリバルが没するまでの8年間、愛そして戦いのパートナーであった。

1824

フニンにて、スペイン王党派の駐ペルー軍に勝利。一方スクレ将軍は、アヤクーチョの戦いで王党派に決定的勝利を収める。

1825

アルト・ペルーは「ボリバル共和国(のちボリビア共和国)」となる。

1826

ラ・コシアタを鎮めるためカラカスに戻る(ラ・コシアタは、パエス将軍が指揮するベネズエラの大コロンビアからの分離運動)。

1827

パナマ会議では解放されて間もない諸共和国の間で分離主義的な傾向が露呈する。

1830

大コロンビアの崩壊が進む中、12月17日に死去。



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