ここでは、ヨーロッパ人によるベネズエラ「発見」と独立前後にスポットを当てて略史を紹介します。
ベネズエラは、1498年8月2日、コロンブスの第三回航海で「発見」された。コロンブスはオリノコ川河口地域に到着し、豊かな水量と熱帯雨林の深さに驚いた。スペイン両王への手紙で、この地を恩寵の地(Tierra de Gracia)と書いている。
コロンブス到着の報を受け、アロンソ・デ・オヘーダは1499年5月にスペインを出発し、マラカイボ湖に続くコキバコア湾(ベネズエラ湾)に到着した。オヘーダは、水上に杭を立てて作った先住民の集落を見て、この地を「小ベネチア」という意味で「ベネズエラ」と名づけた。ちなみに、この旅には「アメリカ」という地名の由来となったアメリゴ・ベスプッチも同行している。
その後、幾度もの探検により南アメリカ大陸の存在が明らかとなった。1515年、クバグア島という小さな島に、入植者による最初の町、ヌエバ・カディスが築かれた。クバグア島や隣接するマルガリータ島では真珠が豊富に採れたため冒険家たちが定住してできた町がこのヌエバ・カディスだが、後に津波により破壊された。
真珠の豊富さから、ベネズエラの征服は東部から始まった。入植者の初期の定住地は上述ヌエバ・カディスや、マルガリータ島のラ・アスンシオンであった。
初期に建設された町の一つに、エル・トクヨ(1545年創建)がある。この町は、数々の探検隊の出発地点となった。1547年にはアルフォンソ・ペレス・デ・トローサがここから遠征に発ち、現在のアプーレ州の平原を経て川を遡り、アンデス山脈にまで到達している。
その他、この時期に創建された町に、トゥルヒージョ(1557年、ディエゴ・ガルシア・デ・パレデスが創建)、メリダ(1558年、フアン・ロドリゲス・スアレス創建)、サン・クリストバル(1561年、フアン・デ・マルドナンド創建)がある。
南部は、複数の大河が横たわる地形と先住民の抵抗により、最も征服が困難な土地であった。この地域への初期の遠征の一つに、ディエゴ・デ・オルダスによるサントトメ・デ・グアヤナの探検(1531年)が挙げられる。ここは、オリノコ川とカロニ川の合流地点付近にある土地で、現在シウダーボリバルと呼ばれる場所である。
スペイン植民地となったベネズエラの独立の動きは1810年4月19日に始まる。「スペイン本国では国王フェルナンド7世が追放され、フランス(ナポレオンの兄ホセ1世)が統治している」ことを言い訳に利用し、カラカスの市民グループが反乱を起こしたのがきっかけだった。「フェルナンド7世が再びスペイン国王となるまで、独自の政府を樹立する」と宣言。彼らはスペイン本国から派遣されていた総督を辞任させ、自らの最高評議会を立ち上げた。
また、新政府への国際社会の承認と支持を得るため、シモン・ボリバル、ルイス・ロペス・メンデス、アンドレス・ベージョによる外交使節団がロンドンへ、フアン・ビセンテ・デ・ボリバル、テレスフォロ・オレアとホセ・ラファエル・レベンガが米国へ派遣された。加えて、最高評議会は領内全ての市参事会(アユンタミエント)に向けて通信し、選挙を公示した。ベネズエラ初の国会は1811年3月2日に召集され、カラカス、バリナス、クマナ、バルセロナ、マルガリータ、メリダ、トゥルヒージョの各州代表が出席した。一方、グアヤナ、マラカイボ、コロの各州は、スペイン政府へ服属する態度を保ち、代表を派遣しなかった。
なお、この議会で初めてベネズエラ国旗が採用された。1806年にフランシスコ・デ・ミランダが遠征で使用した黄・青・赤の三色旗を原形とし、青地部分に代表7州を表した7つの星を加えたものである。新政権は三権分立を目指して、最高裁判所を設立し、フランシスコ・エスペホを司法のトップに就けた。同様に行政の代表にはクリストバル・メンドーサ等3名が就いた。
1811年7月5日、議会はベネズエラの独立を宣言、これによって国家としてのベネズエラが創設された。最初の憲法は、米国憲法と同じく、連邦主義的で地方分権主義的な性格を備えており、各州が自治権を保持し、独自の法を持つこととした。一方でフランスの憲法の影響も受けており、人権を尊重し、社会階級にかかわらず全ての住民を市民として扱うことを定めた。
このようにして第一共和制が始まったものの、依然としてグアヤナ、マラカイボ、コロの各州は王党派が支配していた。独立の動きに対し、スペインはベネズエラとの貿易を阻害し、ドミンゴ・モンテベルデを派遣して対抗した。そんな中、1812年3月26日、強い地震が起き、カラカスや周辺都市に1万人以上の死者が出た。カラカス大地震である。独立運動に反対する王党派や、王党派を支持する多くの宗教家たちは、独立派に神の罰が下ったと喧伝した。
スペイン軍・自然災害の二重の危機に直面した新政府は、共和国を守るため、フランシスコ・デ・ミランダに三権全てを集中させて独裁制に譲った。ミランダはスペインの攻撃に対し、ウスタリスにバレンシアの防衛を、シモン・ボリバルにプエルト・カベーリョの防衛を任命した。しかし二人とも目的は達成しえず、陥落した。最終的にミランダは、1812年7月25日、サン・マテオで降伏したが、モンテベルデは休戦協定を破り、ミランダを収監した。このようにして、第一共和制は終わった。
◆書籍『1810年4月19日』(カルメン・ボオルケス著)
ベネズエラ独立宣言の日である1810年4月19日とその前夜についてまとめた書籍の全文を以下からご覧いただけます。独立宣言から200周年を記念し、駐日ベネズエラ大使館が2010年に発行しました。(スペイン語原文、日本語・英語対訳付き)
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戦い | 国 | 日付 |
---|---|---|
サン・マテオの戦い | ベネズエラ | 1812年7月25日 |
ラ・ビクトリアの戦い | ベネズエラ | 1814年2月12日 |
ウリカの戦い | ベネズエラ | 1814年12月5日 |
ボヤカの戦い | コロンビア | 1819年8月7日 |
カラボボの戦い | ベネズエラ | 1821年6月24日 |
ボンボナの戦い | エクアドル | 1822年4月7日 |
ピチンチャの戦い | エクアドル | 1822年5月24日 |
フニンの戦い | ペルー | 1824年8月6日 |
アヤクーチョの戦い | ペルー | 1824年12月9日 |